新・じゃのめ見聞録  No.7

八重のドレスはいくらしたのだろうか?

―八重の金銭感覚について―

2012.12.12


八重について書かれた本の表紙の多くに、八重がドレスを着た写真が使われている。しかし、表紙に使っていても、この写真について、踏み込んで言及している本はまだでていない。踏み込んでと言うのは、当時このドレスの値段は一体いくらしたんだろうというようなことを尋ねてみることである。写真のドレスに近いものを再現する試みはなされているが、その場合でも当時の費用のことに言及されるわけではない。ドレスの再現と、ドレスの値段を問うことは、おのずから関心の向け方が違うからだろう。特に服の値段を聞いたりすることは、今でもはしたないというか、下品だとみなされることが多いので、八重の研究でもそういうことには極力触れたがらないのかも知れない。

 八重の研究が、「幕末のジャンヌ・ダルク」や「ハンサム・ウーマン」というような聞こえのいいところで、雰囲気を追うだけのようになってしまいがちな研究から、実証的な八重研究になかなか進めないのは、八重の実態の把握を避けてきているところがあるのではないかと私には思えるところがある。

この洋風のドレスを着た八重の写真を見ただけで、衣服には全く素人の私でも、明治のある時期にこのドレスを買うというのはどういうことなんだろうと思い、また買うとしたら、かなり高かったのではないかと、思ってしまうのである。(この写真は1888年明治21年11月3日、京都市寺町の堀真澄写真館で撮られたとされている)。でも、そういうドレスの値段や、いつどこでこういう服を着たのだろうか、というようなことを、学生に聞かれても、私は答えられない。なぜ答えられないのか、そんなところに関心を持って見るのは失礼だと思っているところがあるからだし、八重の外見に関心を持つのではなく、八重の中身に関心を持つべきだといわれそうだからである。

ところで、明治20年2月に、徳冨蘇峰が『国民之友』で、当時流行りだした「バッスルスタイル」(八重の写真のドレスはまさにこのバッスルスタイルのドレスであった)などの洋風の婦人服に異を唱え、平民的欧化主義を訴え、一般国民の生活から浮き上がった貴族的欧風模倣に非難を加えていた。この明治20年前後の婦人洋装の流行は、それなりにきちんと分析されないといけないのであるが、徳富蘇峰ら平民主義からすると、許せないものがあったに違いない。

この辺のことが知りたくて資料を探していたら家永三郎『増補改訂 日本人の洋服観の変遷』ドメス出版1976があることを知らされた。そこでは当時の新聞が紹介され、洋風の婦人服の値段が書かれていた。貴重な紹介である。そこには「婦人洋服が男子洋服に比べていちじるしく高価であるばかりでなく、当時の国民一般の所得や物価水準に照らしてもきわめて高額である」と指摘されて、次のように具体的に書かれていた。

子供服 金60銭より1円40銭
大人服 金1円50銭より2円50銭
女服縮緬更紗(ちりめんさらさ) 四つ揃金9円50銭

 これだけみても、婦人服は普通の大人の服の4倍の値段がし、それが凝ったドレスに仕立てられるためには、いかほどの料金が追加されたのか、想像が出来ないものがある。家永三郎は先ほどの本の中で、ある論者の言葉を引用している。

 「論者は「西洋は富裕なり。我国の境遇に比しては天壌の相違なり。日本中等人士にして洋服を夫人に着用せしむる程の富裕のもの幾何あるや」と疑い、また洋服地と付属品輸入のために莫大の輸出をしなければならず、「国家経済の為に計るに、患ふべき事なり」と言っている」

 この明治20年頃はまさに「鹿鳴館の時代」なのであろうから、この時代に八重がバッスルドレスを着たという事はわかるし、どんなドレスを着たのかは写真を見て復元することも可能だが、そういう服は「富裕」のものが着たわけであるから、八重でなくても「富裕」の人はこういう服を着ていたということまではわかる。ということは、今のこの現代の時点から、この写真のドレスに注目するという意味は一体どこにあるのかと言うことになるだろう。

 一つには、こういう高価な洋風の婦人服がどのように作られていたのか細かく再現してみるという関心の持ち方がある。その場合は、そのドレスが誰が着ていたのかは問わない、という前提である。

 次には、そういうドレスを着ることで、ある時代をニーズを生きた女性の姿を考えることである。それは「鹿鳴館の女性」を考えることである。文学の方からは三島由紀夫『鹿鳴館』新潮社1984や磯田光一『鹿鳴館の系譜』文藝春秋1983があるし、八重と鶴が城で籠城した山川さき(当時8歳)が後に留学し大山捨松となる波瀾万丈の女性を描いた久野明子『鹿鳴館の貴婦人』中公文庫1993がある。

 そして三つ目は、そのドレスを八重が着ていたものとして考えることである。そうなると、そこに深く関わる「富裕層」の問題を度外視して、「八重のドレス」を語るわけにはゆかなくなる。つまり八重は「富裕層」だったから、あの写真のドレスを作り、着ることができたのかという問題である。そして私はここに来て、本当にそうであったのかとここで問いたいと思っているのである。つまり、当時の八重は「バッスルドレス」を仕立てることが出来るほど「裕福」だったのかという問いかけである。

そのことを問えば、八重の服代がどこから出ていたのかを調べなくてはならなくなる。普通に考えればそれはそれは襄の給料から、ということになるだろう。そうなると当時の襄の給料の中身と突き合わせをしなくてはならなくなる。八重の研究が実証的に行われないのは、実はそういう所を考えることを避けてきているところに原因があるような気がする。私がここでドレスの購入価格のことを問題にするのは、値段が知りたいが為だけではなく、その支払いを一体誰がしたのかということを気にしなくてもいいのかということを問題にしたいがためである。もちろん、その支払いは、夫の新島襄ですよ、という答えになるのであろうが、貴族や華族ではない新島の給料は、普通に考えれば学生の学費からまかなわれているはずだから、八重のドレス代は、学生の学費からまかなわれていることになってくる。(アメリカンボードなどから支援があったにしても、そういう支援をドレス代に当てればそれはおかしな事になるだろう)。もしも、八重のドレスが、高価なものなければそんなドレス代を「問題」にすることなどはないのだが、もしも庶民の給料では支払えないような高額のドレス代だったとしたら、そういうものを購入する八重の暮らしぶりを、もっと具体的、実証的に調べる必要があるのではないか、と私は思わざるをえないのである。そういうことが従来の八重研究に欠けているのではないかと。

 なぜ私がそういうことに言及するのかというと、何も八重さんに「文句」をいいたいがためではない。この私の疑問は、八重の生きていた時代から、八重の回りで感じられていた疑問であり、八重を研究するのであれば本当はこういうところはもっときちんと調べなくてはならないのである。その「当時の回りの反応」で有名なのは、徳冨蘆花の書いた『黒い眼と茶色の目』(「豪華日本現代文学全集5 徳冨蘆花集」講談社1969)で次のように描かれている。
「夫人がお洒落で、かわった浴衣ばかり一夏に20枚も作ったの、大きな体にみなぎる血の狂いを抑えかねてのっぺりした養子の前を湯上がりの一糸をかけぬ赤裸で通ったのといようないかがわしい噂は、敬二の耳に入っていた。」

浴衣を一夏に20枚も作るというのは、ただの噂話なのか、本当のことなのか、そんなことはどうでも良いことなのか。徳冨蘆花が、ふだんの暮らしで八重との衝突があったので、わざと話を誇張させて書いているだけなのか・・もちろん真相はわからない。このことを調べるには、どこかに家計簿の記録が残っていて、それが公表されていないだけなのか、調べてみないといけないだろう。そこは実証的な研究がなされていないものだから、確かめようがないのが現状である。

 ではなんでそんな、噂のような、確かめられそうにもないような小説の一節を私は引用し、それにこだわるのかのということである。それは八重を悪意を持って見ることになるのではないかと。もちろん、八重の買い物癖が、小説の一節にすぎないことであるのなら、私も無視するのであるが、晩年の茶道へののめり込みの中で、高価な茶器を次々に購入する姿への周りの人の証言を知るにつけて、やはりこの八重の金銭感覚はもっと丁寧に調べた方がよいのではないかと私は思うようになったからである。その晩年の有名な証言は、武間冨貴の懐古で、次のように述べられている。

 「おばさまは明治40年ころ、寺町の新島家の土地と家屋とを同志社に全部寄付をなさいましたので、同志社は感謝してそれを頂き、おばさまには金600円を年々差し上げることにされましたが。ところが、おばさまはそれを頂かれるとすぐお茶道具を買ってしまわれたので、お小遣いには相変わらず不自由をしておられたらしく、父(大沢徳太郎)によくねだりに来ておられました」。

当時の600円がどのようなもので、当時の一般的な人の生活水準がどのようなものであったのかは、これまた実証的に調べてみないとわからないのがだ、八重はこのお金を茶道具の購入に充てて、不自由をしていたというのである。

私は本当に八重のことを知りたいと思うなら、襄と暮らしていたときの家計簿、襄の亡き後の八重の家計簿がもっと明らかにならないのいけないのではないかと思っている。けれども、はじめにも述べたように、そういう所に関心を持つのは、下品で、なおかつ大河ドラマの八重の桜のイメージに真っ向から逆らうような感じで受け止められそうに感じて、そんなことは言わない方が良いのかも知れないと思っていた。

 ところが調べものをしているうちに、女子大に中ですでに「家計簿」のことに言及されているすぐれた先行研究のあることに、はじめて気がついたのである。そして、こんな研究がづっと前にあったんだとうれしくなった。それは坂本清音「新島襄の人となりー八重書簡を通してみた」『新島全集を読む』晃洋書房2002である。この論文は、八重の研究としても優れた研究で、今のNHKの流れに迎合するような柔な研究にはない硬派のものであって、ぜひ一読されることをお勧めします。

 その中で坂本先生は、襄が「武士の心ばかりにては足らず、真の信者の心をもって共に日々歩み・・」と八重に書簡を送っていたこと紹介されていた。八重は「家計」にあまり関わることがなく「武士の心」で豪快に欲しいものを買うことが出来ていて、その金銭感覚には、襄も自分の死後のことが気になっていたのではないか。そんなことを考えさせることが、坂本論文に書かれている。とくに襄が一人で金銭の出入簿を記帳していたのではないかという可能性にも触れ、そういうことを、もし一人でしていたとしたらその労力は大変なものであったはずだと書かれていた。そこのところは、本当に共感する。

 すでに10年も前に、襄と八重の関係を「家計簿」の視点から考察されていた先生がおられたことを知って、改めて八重のドレスの値段のことを問うのは、おかしなことではないのではないかという思いがしている。